>江戸時代、日本では「貧乏は自分の責任」という考え方が一般的でした。
つまり、「自分は貧乏だから……」なんて言うことは、今の時代でいう「自分は努力をしなかったクズだから……」と言うのと同じことでした。
しかし明治時代末期になって、河上肇が「貧乏物語」を記して、
「貧乏は国家の責任」という考え方も広まっていきます。
そうして現在。
低所得者にはお金を配って、お金持ちは高額の税金を取られる。こんな社会が出来上がっています。
僕はお金があるかないかというのは、やはり自己責任だと考えます。
なぜなら、普通に努力すればお金が無いはずがないからです。
もしAさんが「お金が欲しい」と思うとしましょう。
ここで、自分の望みは「お金が欲しい」のですから、労働を惜しむようじゃ志が足りないということです。仕事につけなくても、アルバイトぐらいならできますよね。
時給700円のアルバイトを1日3時間、週に5日するとします。(学生でも可能な時間です)
つまり、一週間で\10500儲かるわけです。
ここで、自分はお金が欲しいのだから、食費を削るのも惜しむようじゃ志が足りない。
毎食カップ麺一杯(イズミヤ製品)を食べれば、食費は各色\98、一日で\294、一週間で\2058です。
水くらい公園とかフードコートとかに無料であります。
また、お金が欲しいのであれば、野宿も覚悟すれば、かかる費用は食費だけになるので、
たったこれだけの労働で、一週間で8400円たまります。
一年間これを続ければ、約44万円貯まることになります。
ここまで努力してからじゃないと、お金が足りないなんていう資格はないですよね。
自分の学校でもよく聞きます。
「自分は私学に通っているからお金が無い」と。
それに対して「じゃあ学校辞めれば?」と返すと、いつも「自分の能力を活かしたいんだ」と返されます。
それってつまり、「自分が”自分の能力を活かしたい”という個人的な望みのためにお金を使う」行為あって、「自分が”ゲームで遊びたい”という個人的な望みのためにお金を使う」行為となんらかわりはないですよね。
自分の望みのためにお金を使ったらお金がなくなった!→当たり前じゃ!という話です。
最大限の努力をしてこそ、その努力をサポートされる権利があると思います。